院長からのご挨拶

こんな靴下を履いている院長です。

~街医者です、そして3歳児です~

院長の橋場功夫と申します。街医者になりたくてやっと街医者になりました。札幌、小樽、伊達、函館と主に道南で働くことが多かったのですが、平成8年に故郷の旭川市に戻り開業しました。
好きな言葉は”一生懸命“です。こころがけていることは患者様の“納得“です。来ていただいた患者様にはとにかく一生懸命に関わろうと思っています。
当院の診療の流れは大体は次のようになっています。まず問診といって症状、経過などをお聞きする。耳、鼻、のどなどを診る。必要な検査を選び、行い、その結果の説明をする。必要な処置、点滴、薬の処方などをする。
この中で一生懸命できることは説明です。そして、その結果として納得していただけるかどうかが大事です。街医者にできることを街医者としてする。必要に応じて、または、医者としては必要が無いと思っても、本人が不安に思っていたり、納得していない場合は大きな病院へご紹介する。こんなやり方が僕のやり方です。
10人に1人でも20人に1人でも、”お蔭様でよくなりました、・・・・・・“とか”しっかり検査してもらって安心しました。“とかいわれようものなら、ととても幸せになるんです。3歳児が”わー、すごい!“とか”おりこうさん!“なんてほめられ た時と同じです。そうです。東光耳鼻咽喉科の橋場は3歳児です。

橋場 功夫 拝

院長略歴

1957年(昭和32年) 旭川市生まれ
北鎮小学校、向稜小学校、北星中学校
昭和48年 旭川東高等学校入学
昭和51年 同校 卒業
札幌予備学院2年
桑園予備校2年
札幌予備学院2年
昭和57年 札幌医科大学入学
1年生でいきなり留年(落第ということです)
平成元年 同校  卒業
医師国家試験合格

履歴に関する補足説明

中学生までは非常に優等生だったと思います。しかし、旭川東高に入学してからはいきなり劣等性というか、落ちこぼれというか・・・・・・、卒業時には学年450人中420番ぐらいだったと思います。
担任の先生の進路相談の時、その先生が、“言いにくいんだけど、データー上はお前の成績で医学部に入った人は東高の歴史上一人もいないぞ。もちろん浪人も含めて・・・・・・。”と辛そうに小生に他の道に進むよう説得されたものです。
素直にその担任の先生は辛かったと思います。生徒が担任を同情しちゃいました。でも医者になりたかった。勉強もろくにしないくせに希望だけはしっかりしていました。まあ、無謀というやつです。
高校を何とか卒業して、予定通り浪人、今年も浪人、次も、その次も・・・・・・。今から考えると何をやっていたんでしょう?さっさと努力して、念願を達成すればいいのに、ダラダラと・・・・・・。浪人ということになれば一応暗いということになるはずですが、本人的には必ず医者になれると信じていて、あまり、不安も無く、辛くもなかったことだけは良く覚えています。若かったんですね。前向きというか、単なる現状把握できないアホだったかもしれません。予備校通いが何と6年間でした。(頭わるっ!)
しかも、やっと念願の医学部に合格できたのに、いきなり留年(落第ってこと。やっぱ頭わるっ!)
今から考えると自分の両親はよくもこんなに長い期間仕送りを続けてくれたなあと思います。予備校で6年、留年を含めて大学で7年。合計13年間も自分の息子を信じて仕送りをしてくれました。
今、自分がオッサンになってわかります。うちの親はすごかったなあって。自分の親はなんと寛大だったんだろうと思います。母は既に他界しています。父は、高齢でインターネットなどとは縁が無く、この記載を見ることは無いと思いますが、感謝です。
そんな僕ですが、医学部1年目での留年はきつかったです。本当に情けなく、良い薬になりました。その後からです。結構勉強しました。ちゃんと勉強しました。

院長職歴

平成元年 札幌医科大学付属病院勤務
小樽市立病院勤務
平成2年 札幌医科大学付属病院勤務
市立函館病院勤務
平成5年 伊達赤十字病院勤務
平成7年 函館五稜郭病院勤務
平成8年 東光耳鼻咽喉科開業